メディア活用と遠隔学習
視聴覚教育, Vo.52, No.8, pp.48-49, 1998

メディア教育開発センター 助教授 吉田雅巳

1. はじめに

 日本社会のマルチメディア,特にネットワークの整備はサーバー規模から見るとアメリカに次ぐ普及でECと並んで世界をリードする状況にある。今や離島へもファイバーが届いている。しかしながら,初等・中等教育におけるネットワーク整備は世界100位程度で,社会や産業の現状に及ぶべくも無い。
 しかし,程なく学校へも急速なインフラ整備がやってきてマルチメディア活用が追求されるであろう。かつて,情報教育が学校教育に取り入れられコンピュータがやってきた時も同じような議論があったが,伝達メディアを活用すれば一体どのような効果があるのだろうか,その活用意義を見つめるときがきた。

2.コミュニケーションメディアと教育

 インターネット,TVカンファレンスシステムと授業で活用可能な伝達メディアがやってくる。反面,チームティーチングなど丁寧な指導ができる対面授業も実現できる。今や,メディアは単なるマス(多人数)への対策としての位置づけではない。本当に使う意味があるのだろうか。使ったらどんな効果があるのだろうか。

(1) 伝統的な制約への対応
 まず,最初に聞こえてくるのが,距離や時間への制約を解くという効果だ。離村学校への支援や勤労生徒,時間外指導などの可能性が言われる。

(2) 個別学習への貢献
 素材や教材,プログラムなどをネットワークでアクセスしての個別学習。個々のコンピュータが同じ物を抱える必要はなく,自律分散型の処理の利点を活用できる。

(3) メディアと学習効果
 上記2つの教育に,共通して見えるのが,メディアの伝達性を活かした教育である。このようなメディアでの教育と対面教育との教育効果の研究は数多く行われている。有名なのがクラークの知見で,彼はその論文「メディアからの学習に関する研究を再考する」において,「メディアは教授活動を運ぶ単なる乗り物であって,生徒の学習達成には影響しない」と主張している。当然批判もあるが,未だ明確な決着を見ていない。

3. 学習達成へのパワー

 実はこの議論の背景にある重要な事項がある。それは,「子どもは学ぶことを選ばなければならない」という前提である。つまり,その気になって座ったときに黒板でも,ことばでも,伝達メディアを使っても到達度に差が無いという議論なのである。
 夏休みの子どもの会ラジオ体操を思い出していただきたい。メディアが珍しい頃には,公園に集まって貴重なラジオを皆で分け合って聞いて体操をしたのだろう。しかし,各家庭にラジカセが普及した今,朝早く公園に集まる。録音すれば,朝早く起きなくてもいいし,各家庭にあるんだから公園に行かなくてもいい。でも,子どもたちは集まるのである。それは,他でもない『公園に行かないで家にいたら体操しないから』である。
 かくのごとく意図的・自主的学習は難しい。先日私の研究室をフィンランドの研究者が訪問した。彼曰く,「フィンランドには16の公開大学があり,そこを卒業したら一般大学と同じ一人前の大学卒と認められる」というのである。さらに「むしろ遠隔で自主的に学ぶことは大変なのでその努力は社会でも評価される」とも言う。それに対して日本では,伝達メディア介在の教育はあまり認められなかったのではないか。

4. 学びはやさしくない

 先日大学の授業で,学生たちを連れて校外学習に出かけた。行き先の科学館には豊富な巨大教具が置いてあり,訪問者は自由に触れて学べるようになっており多くの子どもが群がっていた。そこで,私は学生たちに『子どもたちがどのように教具から学んでいるか見てごらん』と指示をした。学生たちはしばらく子どもたちを観察していた。子どもたちは教具を使って楽しそうであるけれども,せっかくの教具からどうも学んではいない。学生曰く「遊んでいる」であった。
 これに対して,「経験をすることが大事なんだ」という意見もある。経験の重要さは,理解できるが,それにしてもいつかは経験を引き出して学びに適用する活動に没頭しなくてはいけない。加えて経験を思い出したり,整理したりという知的作業も加わるだろう。
 現代は,情報の欠如より学びの欠如のほうが深刻である。与えることだけを追求する教育から脱皮しなくてはならない。

5. 学び方を学ぶ

 先生の指示を全員がそつなくこなせるなら,教育は廃業だろう。しかし実際には多くの指導が子どもの中で消化不良となっているのではないか。子どもは個々に特徴ある能力や技能を持っている。だから個性を尊重,伸長するということで,際立つところがあれば,その一端でも評価することが常用化し,結果的に消化不良を放置していた。そして,今や高等教育にまで「この子には可能性がある」,「この子はやればできる」が蔓延している。こんな『大人子ども』を作る方法はそろそろ変えてゆくべきであろう。
 今大切なのは,一つの仕事を完結する力である。一つの仕事でも成し遂げるまでには関連した多くの能力や作業が必要である。個人的ばらつきもある。それを自分で調整し,自己をコーディネートできなくては完結できない。これは個性を否定するものでは決してない。
 私は大学の授業でネットワーク経由でレポート提出する課題を課している。
WWW上で書き込める極めて易しい方法である。しかし,それでも紙で持ってくる学生がいる。うまくコンピュータが動かないのだそうだ。私は「君は確かに多くの字数を書いてきているが,内容に関わらずこれでは十分でないよ」と言う。すると,それを持ち帰り改めて電送するという。授業で「何を出せばいいの」と考えている。課題で要求されているのは,解答ではなく活動で,「どうすればを考える」ことである。もし,自分のメディアアクセス能力が低かったら,1000行の原稿を5行にしてもいい。総合的に自分の力を判断し調整することが大切だ。ある学生は,僅かの入力に4時間かかったという。他の学生のレポートはどう見ても数分しかかかっていない。しかし,個々に違いはあっても全員が課題を作品の形で提出している。4時間かかった学生も,次は入力が早くなるし,文章も要約して準備するだろう。友人に操作を習えばもっと容易に上達する。社会性も学習事項である。到達度的完全習得学習は困難であるが,学習的完全習得学習はこのようにメディア活用の中で効果的に実現する。ここでは,場所や,時間や,情報源などの制約が無い新しい学習環境が実現できる。

6. 教師の指導の変化

 伝達メディアは教育環境の情報化を進めるであろう。そして,たとえ教室授業でもこれまでのように教師・教科書が唯一の情報源ではない。教師は,「家にラジカセを持っている子どもが公園で聞いているラジオ」の位置づけを考えるべきであろう。遠隔学習だけに留まらず,対面授業を含めた大きな教育観の変貌と指導の変化に取り組むときである。

http://www.nime.ac.jp/~masami/work/av98.htm